古代朝鮮文化と日高

入門 高麗若光

 高麗郡(こまぐん)とはなにか 公刊されている資料・出版物 朝鮮半島の歴史と日本の歴史に関する個人ページ 光が乗ってきた船 若光はどこから来たのか

土器のかけらを見つけた話

 わたしは日高市に移り住んで約30年になります。移り住んだころは仕事に忙しく、地元の歴史や人情にとんと疎かった人間でした。しかし、仕事も終わりに近づき老後のこともすこし考えるようになってから、心の余裕のようなものが芽生え、地域のことに関心が出てきました。

子どものころから拾い癖があるものですから「土器が落ちている場所がある」、と小耳にはさみ、小畔側のあたりを探しておりました。そうしましたら、土器のかけららを見つけることができ「やったー」とおもわず叫んでしまいました。

拾った土器のかけら(ふたつとも縄目模様)

畑と川の境目にある土器のかけらや石ころ捨て場

この小畔側の周辺は古代より人が住んでいた場所で、村人たちが開墾をするたびに今は無い廃寺の瓦や土器のかけらが畑からたくさん出てきました。村人たちはそれらは畑にとって邪魔なので、畑の隅に積み上げたものが今でも小畔側の川沿いに残っているのです。

日高の教育委員会では遺跡の発掘に熱心に取り組んでいます。公民館や資料館にはそれらの一部が展示されていますが、場所が狭いせいか大々的な展示はまだ見たことがありません。

それはそれとして、日高もなにかすごい歴史があるらしく、いろいろ調べ始めました。これからはじまる物語は地元・日高市のアマチュアが始めた「壮大な?」歴史のお勉強の結果です。

高麗郡(こまぐん)

 八王子から八高線に乗り約50分、高麗川駅で下車するとこのあたりが日高市の中心になります。日高市は高麗川村、高萩村、高麗村が合併してできた日高町が市制施行により生まれました。 その昔、このあたりは高麗郡と呼ばれていた時代がありましたが、1896年3月29日(入間郡に編入)のため消滅しました。   その昔、高麗郡は武蔵の国の一部でした。⇒高麗地方の地図の歴史

小畔川 この川沿いに集落が形成されていました

かわせみ 高麗川のがけ沿いに横穴を作って巣とする 

巾着田 初夏/日和田山よりの眺望 高麗家住宅 高麗神社裏手に位置し、萱ぶきで囲炉裏が切ってある

  『続日本紀』に、霊亀2年(716)、甲斐、駿河、相模、上総、下総、常陸、下野7国中の高句麗人1799人を武蔵国に移して高麗郡(こまのこおり)を設置したと記されています。 高麗郡は当時は、今でいう”学園都市つくば”みたいな先進的な文化都市だったという説がありますが、今だ確証がありません。 『日高町史』には「高麗」を次のように紹介しています。

 「高麗は高句麗のことで、新羅滅亡後、朝鮮半島を統一して開城という土地に都を定めた高麗とは別の国である」 「高句麗は西暦紀元前、松花江の上流扶余の地に興り、着々と勢力を強め、ついに朝鮮半島の北半を領有して、平壤に都を築いた強大な国家である。高句麗はわが国とは古くから往来があり、高度な技術をもっていたと伝えられて、わが国の文化発展に貢献したところは大きい。この強大な高句麗も建国以来700余年、天智天皇の7年(668)、唐と新羅の連合軍に破れ滅亡するに至った。高句麗滅亡のとき、北に逃れた高句麗人は後に渤海を建国(698)したが、南に難を避けた多くの遺臣や王族などがわが国に渡来した。この中にかって貢進使の副使として来朝したことのある高麗若光の姿があった」 

『続日本紀』では、文武天皇の大宝3年(703)に「従五位下高麗若光腸王姓」[従五位の下、高麗の若光に王(こしき)の姓(かばね)を賜う]と記されています。 高麗郡は二郷の構成で、高麗郷(現 日高市・他)と上総(現 飯能市・他)より成っていました。 郡の統率は高麗王若光により行われ、本拠地は日高市の高麗地区に置かれたとされている。 若光の没後、その遺徳を偲んだのが高麗明神という伝承がある。 高麗氏の系図は高麗神社の宮司、高麗澄雄氏が現在も相伝しています。

高麗郡のイメージ (安島喜一氏のホームページ ”高麗郡”より転載)

 高句麗とは、朝鮮半島の新羅や百済時代の頃の国と並んで栄えた国、ということで知られています。 なぜ高句麗から人々が現在の日本に来たのか? どんな生活をしていたのか? このような高句麗から来た人々の朝鮮半島におけるくらしぶりを伝える文物、遺跡、遺構を「古代朝鮮文化」と呼びますが、長い年月の間に失われたものも多いと想像されます。現在でも畑の中からは当時の寺院の瓦のかけらが出土するので、農家はそれらを畑の隅に積み上げています。そのほかにも地名、逸話、伝承、神社の由来記など、日本に残る文化の中から古代朝鮮文化につながるものがあります。そのような中から日高にまつわる古代朝鮮文化の足跡を紡いでいきます。

高麗郡イメージ図中、日和田山南方で鉄道線路(西武秩父線)を挟んだ位置する尾根(日高市横手)より東方を望む。地平線中心上に筑波山(877m)が望める。2006年2月5日午後撮影。

 

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高麗郡はどのようにしてできたか

埼玉の古代史跡をめぐるストーリーに関しては、Don Pnchoさんの力作があるので、以下それを引用することにします。

埼玉県のある関東地方には約3万年前の旧石器時代にはすでにヒトが住んでいたことが確認されている。そのご縄文、弥生といろいろありまして、4世紀の前半には、大和政権による全国統一事業の計画は、東にある国々に及んできました。しかし、その頃の大和政権の力はそれほど強力ではなく、東の国ぐににあった力のある豪族と手を組んでその足固めを進めました。

埼玉県も古墳時代を迎えることになります。埼玉には直径50m前後の大きな古墳がいくつもあり、6世紀に入ると現在の行田や比企郡にわたる巨大古墳(さきたま古墳群)を作るような力の強い豪族がいました。大和政権は5世紀の終わり頃から地方に対する支配を強めたのですが、武蔵・毛野地域では、6世紀前半に大和政権による武力によって豪族を従えました。武力の中心として「屯倉」と呼ばれる直接の支配地域を置き、「国造制」を推進しました。

日本史上大きなできごととして大化の改新がありました。大和政権は、大化の改新以前に各国においた地方官のことを、国造(くにのみやつこ)と呼んでいました。天皇の権力または大和政権と特殊な関係をもった地方豪族の地位をそのまま認めて、国造に任命して地方の政治をまかせました。

武蔵国は広大だったために、无邪志(むさし)、胸刺(む(な)さし)、知々夫(ちちぶ)の3つの地域に分けて、国造が置かれました。7世紀の大化の改新以降になると、これら3国は統一されて武蔵国となり、国府が多麻郡(現在の府中市)に置かれました。武蔵国は、初めは東山道に属していましたが、宝亀2年(771)に東海道の一国に変更されました。

武蔵国というは、現在の東京都、埼玉県のほとんどすべての地域、および神奈川県の川崎市・横浜市をカバーする広大な地域にわたった国です。『延喜式』は、武蔵国は下の略図に記した21の郡で構成されていたことを示しています。そのうちの15郡が、現在の埼玉県域である北武蔵にありました。

 

この武蔵国の中でもたびたび戦争が起こり、支配者の交代もしばしば起こるようになりました。また大和政権は朝鮮半島にも出兵し、その有力な兵力として東の国々に住む人々を送り込みました。そのときに兵士を集める力を持った大王が上毛野(かみつけの)氏の先祖だと言われています。6世紀中頃には、毛野国(けぬのくに)が分国され、下毛野国”(しもつけぬのくに)が置かれています。

『万葉集』には、古代の地名「埼玉(さきたま)」を詠み込んだ歌があります。
■埼玉(さきたま)の、小埼(をさき)の沼に、鴨(かも)ぞ、羽(はね)霧(き)る、おのが尾に、降り置ける霜を、掃(はら)ふとにあらし 巻9-1744
意味:埼玉の小埼(の沼の鴨が、羽ばたいて水を飛ばしている。あれは、羽に降り積もった霜を払い落としているのだろうなぁ。
■佐吉多万(さきたま)の津におる船の風をいたみ 綱は絶ゆとも音な絶えそね 巻14-3380
意味:さきたまの津にある船は風が強いので今にも綱が切れそうだ。船の綱は切れようとも、私への言葉は絶やさないでくれ。

 さて、この物語の中心である、古代朝鮮からの渡来人たちはどのような運命をたどったのでしょうか。朝鮮半島から渡来した人々は、我が国の古代国家の歩みに大きな貢献をしたと言われていますが、歴史学者の意見を総合すれば、渡来の波はおよそ4つの時代に分けられるそうです。

第1の波: 紀元前200年頃〜紀元3世紀
第2の波: 応神・仁徳朝を中心とする5世紀前後
第3の波: 5世紀後半〜6世紀はじめ
第4の波: 7世紀後半とくに天智朝の前後

 高麗郡の設置に関する渡来人たちはこの第4の波に関係があるようです。7世紀の後半、朝鮮半島は未曾有の戦乱に見舞われました。国力を充実させた新羅(しらぎ)は超大国の唐と連合して、660年に百済(くだら)を滅ぼし、続いて668年に高句麗を滅亡に追いやりました。その後、連合を組んだ唐を半島から追い出して、新羅は朝鮮半島を統一するという状況に至りました。そのために、滅亡した百済と高句麗のひとびとはもちろん、戦勝国の新羅からも多くの人々が我が国に移り住み、中央や地方で活躍しました。

●霊亀2年(716))……5月、駿河(静岡県)、甲斐(山梨県)、相模(神奈川県)、上総・下総(千葉県)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)の7カ国の高句麗遺民1、799人を武蔵国に移して高麗(こま)郡を置いた。

この記述は最初に紹介したとおり、『続日本紀』に書かれている内容です。高麗郡は現在の日高市と鶴ヶ島市一帯の高麗郡と、その西隣の飯能市あたりの上総(かみつふさ)郷の2つの郷からできていました(図を見てください)。郡衙(役所)は現在の日高市高麗本郷に置かれたとの説があります。埼玉県の西部や北部には渡来系地名がたくさん残っています。このことは渡来人たちのコミュニテイがたくさんあったということです。

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古代朝鮮文化 
 
公刊されている資料・出版物

1、古本ねこや 日朝関連

2、古代朝鮮文化と日本    斎藤忠著作選集

古代朝鮮文化と日本 出版社: 雄山閣出版 ; ISBN: 4639014333 ; 2 巻 (1997/03)

序章 古代朝鮮文化と日本
第1章 都城から見た古代朝鮮と日本
第2章 仏教文化から見た古代朝鮮と日本
第3章 墳墓から見た古代朝鮮文化と日本
第4章 帰化人文化の考察
第5章 研究余滴

4、日本の中の朝鮮文化―筑前・筑後・豊前・豊後    講談社学術文庫 金達寿著

5、日本の中の朝鮮文化―相模・武蔵・上野・房総ほか  講談社学術文庫

6、アジア文庫 韓国・朝鮮 歴史

7、鶴本書店WEB目録 朝鮮古代史

8、高麗神社出自の資料    高麗澄雄編「高麗神社と高麗郷」 昭和6年11月25日初版 日高図書館蔵

日高市立図書館蔵書  

渡来人と仏教信仰  柳田 敏司/編 雄山閣出版 210.2 1994年
宮久保遺跡 上の条遺跡 大寺廃寺跡  日高町教育委員会/編 日高町(埼玉) 日高町教育委員
1985年
大寺廃寺遺跡  日高町教育委員会/編 日高町(埼玉) 日高町教育委員
1984年
日高市史 原始・古代資料編  日高市史編集委員会/編 日高: 日高市 213.4 1997年03月
1 日高の鎌倉街道史話  横田 八郎/著 日高町(埼玉県) 高萩史談会
1987年
2 ふるさとの記憶  横田 八郎/編 日高市: 文化新聞社(印刷)
2001年
3 武蔵国高麗郡 田木村古記録  横田 八郎/著 日高: 文化新聞社(印刷)
1999年
1 加耶から倭国へ  金 達寿/ほか著 竹書房 210.3 1986年
2 巨大古墳と伽耶文化  西嶋 定生/ほか著 角川書店 210.3 1992年
3 廣開土王碑原石拓本集成  武田 幸男/編著 東京大学出版会 221.02 1988年
4 古代朝鮮  井上 秀雄/著 東京: 講談社 221.03 2004年10月
5 古代朝鮮  井上 秀雄/著 日本放送出版協会 221.03 1980年
6 古代朝鮮と日本  西谷 正/編 名著出版 210.2 1990年
7 古代朝鮮と倭族  鳥越 憲三郎/著 中央公論社 221.03 1992年
8 古代朝鮮文化と日本  斎藤 忠/著 東京大学出版会 221.03 1984年
9 三国史記倭人伝  佐伯 有清/編訳
岩波書店
210.3
1988年
10 実証古代朝鮮  井上 秀雄/著 日本放送出版協会 221.03 1992年
11 世界の歴史 6  6
東京: 中央公論社 209 1997年01月
12 朝鮮からみた古代日本  全 浩天/著 未来社 210.3 1989年
13 日本に残る古代朝鮮 関東編  段 煕麟/著 大阪 創元社 210.3 1978年

富士見市立中央図書館蔵

タイトル 人名 出版者 出版年月
1 高麗久保 

〔出版地不明〕: 高麗久保地域学術調査団
1977年

 
 本書は東急高麗団地(663000平米)造成の際に東急不動産が埼玉大学教養学部村本研究室に委託して行った調査研究報告書。 S46−3−13調査団編成、46−3−31委託契約成立、同年4月より調査開始、S52-8月に出版されました。 内容は自然、風土、構造、遺跡を調査範囲としています。 当時の県教育委員会は、「勇の沢」を見下ろす丘陵地帯に位置した20数個の塚を、稲荷前古墳群と同列に置いた問題意識を持って発掘調査を東急不動産に要請しました。報告書は20数基の塚の発掘結果を図、写真で示すがなお詳しい調査が必要と結んでいます。なお、本書は写真や図も多く、東急高麗団地の成り立ちを調べる上でも多いに参考になります(注)。 近隣図書館では入間、狭山、川越、所沢の各市立図書館にあります。浦和、熊谷、久喜の各県立図書館にあります。熊谷と久喜は貸出し可だそうです。

入間郡日高町大字久保字稲荷前344番外所在の東急高麗団地建設予定地内における文化財総合調査報告書
付表1:アカマツ−ヒサカキ群落組成表
付表2:コナラ−ヒサカキ群落組成表
付図1:高麗久保地域の地質図及び断面図
付図2:高麗久保地域の現存植生図
付図3:高麗久保地域所在の塚配列図

(注)2010年8月21日現在、日高市立図書館で蔵書登録されていることを「検索」結果で確認しました(貸出し不可)。飯能市立図書館の蔵書検索ではヒットしませんでした。同書については「日高市史 中世資料編」に「転記」されています。

飯能図書館蔵

1 高麗王物語  柳内 賢治/著 文化新聞社出版局 913.6 1983年

 日高市史 通史編で推薦された本。日高図書館蔵は貸出し禁止(書庫)です。

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朝鮮半島の歴史と日本の歴史に関する個人ページ

9、書評集 ヤマト国家以前を探る ・・日本のはじまりとは事実上、朝鮮からの渡来人によってはじめられたようなのです。これを読んで呆気にとられて、日本国の原初といったものが空っぽになった気がしました。・・・ 『日本古代史と朝鮮』 金達寿(キム タルス)  講談社学術文庫 1985 1000e

10、万葉の昔に想いをはせるのなら、安島喜一氏HP  高麗錦紐解き放けて 高麗郷1 高麗郷2 崩頭の上に

11、高麗神社と渡来人 ・・・高麗神社とその周辺は、古代から現代までの日朝関係史等の諸相を学ぶいいきっかけとなる場所だと思います。

3、北九州の古代(朝鮮文化)史跡探訪旅行記録(新井氏HPより許可を得て転載)  2003.05.09(金)−19(月)

19、 「古事記」「日本書紀」においては、二国間の関係はどのように記録されているだろうか・・ (邪馬台国大研究)第15章 記紀と朝鮮半島 へ。

20、埼玉の古代史跡を巡る ・・地方の歴史にも等分の目配りが必要である。そうすることで、初めて見えてくるものがあるような気がしてきた。(日高市高麗神社、聖天院・・などの歴史的な背景と個人的な雑感を綴っている・・作者=Don Panchoさんのことば)

21、白村江のたたかい   大宰府は旧倭国(九州王朝)統治のために大和政権が立てた「かいらい政府」ではないか? を傍証する額田女王、鏡女王論です。 白村江のたたかいは「斉明天皇の王権拡張のために戦われた」とする最近の”定説”と併せて読んでください。

22、さいたま歴史散歩 高麗神社・聖天院 渡来人移住の経緯と文化など(作者:星野さん) 2009年3月19日追加

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考古学の視点から・・・ 若光が乗ってきた船

12、神奈川県大磯町に高麗家の先祖?若光は船で上陸したと伝えられている。

13、それでは当時の船とはどのようなものであったのか?  白村江のたたかいではたくさんの軍船が動員されました。 海での漁のため櫂(櫓?)をそなえたつり舟が使われました。 多くの官人が任地と都との間を舟で移動しました。

宝塚古墳より出土 舟形埴輪 

 

 

 

 宝塚古墳より出土 舟形埴輪 松坂市文化財センター所蔵

 

 平成12年(2000年)4月11日の毎日新聞朝刊に,三重県松坂市の国史跡・宝塚1号墳から,5世紀初めのものと見られる国内最大の「船形埴輪」が出土したという記事がありました。写真(上)を見ると,二つの円筒台の上に船の形の像が乗せられています。船首と船尾がそり上がった,ゴンドラのような船です。全長140cm,幅25cm,高さ90cmの大きさです。(平成18(2006年)年6月9日 国の重要文化財に指定されました)


 埴輪について調べてみました。「大和政権ができるころ,各地で大きな古墳が造られ始めた。規模の大きなものは前方後円墳である。古墳の上には,さまざまな埴輪が立てられ,古墳の内部には棺とともに鏡・玉・剣などが納められた。…4世紀から6世紀末までの約300 年間は,古墳がさかんにつくられたので,古墳時代とよばれている」(日文中学生の社会科・歴史より)  → さきたま古墳群

時期:4世紀末葉〜5世紀前葉 長原遺跡高廻り1・2号墳(平野区長吉長原2丁目)

 隣合った2基の古墳からそれぞれ1点出土したものだそうです。手前が高廻り2号墳出土で、全長約129cm(4世紀末葉)。向こう側が同1号墳出土で、全長約100cm(5世紀前葉)。どちらも刳抜き(くりぬき)の船底に舷側板を付加した準構造船を模していますが、形が異なります。モデルとなった船の構造の違いを表すと考えられます。この埴輪は、他の同古墳出土埴輪とともに、国の重要文化財に指定されています。 

西都原169号墳出土の”船形埴輪”の記事と写真が「新潮社 梅原猛著、天皇家の”ふるさと”日向をゆく」p121に出ています。
埴輪は国立博物館にあるそうです。

天日槍渡来イラスト 天日槍の渡来  大磯・御船祭・明神丸大磯・御船祭

 

14、  統一新羅時代(676〜935)に東アジアの海上を制圧し、国際貿易を主導した実在人物チャン・ボゴを描いた、韓国の超大作時代劇韓国ドラマ”海神”が話題になっています。 統一新羅時代に実在したチャン・ボゴの英雄伝。身分の低い船倉(ソンチャン)として働いていた彼が、“海神”と呼ばれるまでの激動の人生が描かれています。
 約1000年前に韓国史上唯一海上を支配し、偉大な海上帝国を夢見ていた“海神”チャン・ボゴ。唐・日本・アラビアにまで至る海上路を開拓し、東北アジア交易の中心地として青海鎮(チョンへジン)を作りました。このドラマの中で、当時の船作りの匠集団(親方と奴隷)が描かれています。 「船倉」と呼ばれる現代の造船所の奴隷たちの様子や、その親方と領主たちの力関係が描かれています。 唐へ行くのに必要な公験(ビザ)が必要なことなどが織り込まれていて面白い。
このドラマの中で出てくる船の形が13で紹介した帆船に酷似しています。海賊も出てくるので、はらはらドキドキ。

    

          「海神」BS朝日(火・22:00〜)
     で絶賛放送中!! (2008年3月12日現在)

15 古墳・埴輪豆知識(芝山町立古墳博物館、以前は高麗郡について触れていましたが、リニューアル後消滅しています)

16 高麗神社の風景 紹介HP

22 学説、それは権威ある学者・研究者の保証に裏打ちされた定説です。しかし従来からの学説に疑問を持ち、その疑問を解く過程で誤りだと主張した人たちがいます。加速器質量分析法(AMS)という新しい科学的な手法です asahi.com: 学説の誤りひるまず解く『考古学はどう検証したか』_-_ひと・流行・話題_-_BOOK  あなたもAMSの依頼ができる→たとえばここ。 弥生時代が従来の学説よりも約500年早く始まっていたのではないかという国立歴史民俗博物館による研究は,微量の炭素試料の 14C濃度を精確に測定できる加速器質量分析法(AMS)の恩恵によるものである。 第8回AMSシンポジウム&第1回東アジアAMSシンポジウム  [NEWS] 弥生時代、始まりは紀元前10世紀

17 海上交通

万葉集の歌の中に軽快に漕ぎ回る舟の情景が読み込まれています。たくさんの櫓を持った舟は高速にできるらしい。

統一新羅時代の海上交通を担った船、帆船機能と櫓でこぐ機能のふたつが備わっている。(韓国戦争記念館)

水軍レース

「水軍レース」は五丁櫓を10人で漕ぐ団体戦。約400年前、村上水軍が用いたとされる小早船を復元し、速さを競い合う大会です。現代の水軍たちの勇姿を見ることができる。

宮窪町能島沖(村上水軍博物館前)

 

八丁櫓舟 

千葉県立安房博物館(館山市)所蔵

 

 

木製和船【八丁櫓】模型 1/24
※江戸時代の帆掛櫓漕船。徳川家康の護衛を努めた軍船。

駿府に城をかまえていた家康が、焼津浜から久能海岸まで船で渡る際に、村の漁師が所有する漁船では櫓が少ないため家康の船に追いつけず、警備を果たせなかった。 そのため全国でこの地に限り八丁櫓(八本の櫓を持った船)の使用を認めた。 Woody JOE より

はぁー
相州平塚
須賀浜育ち
荒い黒潮乗り越えて
腕が自慢の八丁櫓
こまかい雑魚など見もせずに
鰹片手でつかみ取り 

相州神輿甚句
の一節

すこし脱線したようです。

 

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18 日本の新羅や渤海との交易

  若光はどこから来たのか?

 日高市、飯能市図書館蔵の「高麗王物語(著者・柳内賢治)」の記述は小説という形を取っていますが、具体的にルートを示しています。それによると近江の国(滋賀県)にいた高麗王は船で神奈川県の大磯に上陸、しばらくはそこにとどまっていたが、帝(朝廷)の命により大勢の高麗人を束ねて武蔵の国に向かいます。与えられた土地は未開の地で今でいう武蔵野台地です。川から水を引き水田を広げるとともに、森林を切り開いて住む家を建てたとされます。先住民の人々との交流や軋轢も重ねながら勢力を広げていく様子が描かれています。

  研究1 古代東アジアの王権間でなされた交易の分析

  研究2 遣唐使船とその航路

 遣唐使の歴史は遭難の歴史でもあります。第6次までの前期遣唐使船の場合は、乗り航法を主用する「北路」に依ったので、海難は比較的少なかったと思われます。しかし、8世紀になってから対新羅関係が悪化して北路が使えなくなり、東シナ海横断の「南路」を利用しました。この航路は遭難船が続出する悲惨な結果を招来しました。 出典=ここ

  研究3 Hajimeのいろいろ

  研究4 独自に発展したアジアの造船技術

  研究5 遣唐使船  

   遣唐使についての文献史料はかなり残されているのですが、船の船型や構造となると皆無に近いのが実情です。

  研究6 日本古代史年表 科学方法論

  研究7 続日本紀から「船」に関する記述

  研究8 高岡市万葉博物館

  研究8 海運を中心に展開される瀬戸内海の歴史      瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会ホームページ

  研究9 日高市内にある地名(猿田)とはなにか

    研究10 高句麗 - Wikipedia 高句麗ポータルサイト

  研究11 日韓交流ポータルサイト ユネスコ日韓青年交流事業(日韓交流の歴史(近代以前編)

このサイトは最近復活しました。一時期、”ユネスコ日韓青年交流事業”で検索してみると「竹島は日本の領土だ」と主張する人々からの抗議で”撃滅”されたらしい。この人々はユネスコサイトの記述内容が「韓国寄りだ」との線引きをした上で抗議をしたものと思われます。 公的機関のHPに対し、”国益”を持ち出して抗議する事例が増えています。復活前のHPを読んでいない方へ解説すると、その内容は「金達寿」の著作から引いてきたものが多い。「金達寿」の著作を否定する学者もいるので両者の著作を読み比べてみると、根っこは「日本書紀」の解釈の違いにあることがわかります。以前の記述は「古代、日本と韓半島の歴史には国境はない」とする立場で書かれていましたが、「安重根」の評価が韓国寄りの主張を採用しています(=韓国戦争記念館の展示内容)など、日本にとって反省材料であることが抗議の対象になっていると思われます。『ユネスコは「国際連合の専門機関として、共に生きる平和な地球社会の実現をめざし」た機関なので、いずれリニューアルして登場するものと期待している。』と書きましたが、その記述はすこし間違っていました。ユネスコとは独立した団体が立ち上げたサイトです。

   研究12 日高市内の公民館で瓦のかけらを探す (フィールドワーク) 2006年1月29日(日曜日)予定

 研究13 測量技術から見た高麗郡設置の経緯 

 研究14 高麗神社の祭神

 研究15 柳内賢治(高麗王物語著者)

 研究16 井真成墓誌の謎と遣唐使 → 個人のHP 渤海路についても述べています。

 研究17 The Historic Long, Deep Korean Roots in Japan 
      韓国人が書いた渡来人伝説 朴定和(パク・ジョンファ)著。 著者の専門は原子力工学
      この本は「新撰姓氏録」について論じたもので、古代日本の主流階層は朝鮮半島出身であると述べています。

 研究18 遣唐使船 (推古天皇8年 7世紀初頭) 船号に「丸」  船号 (例 佐伯) 位階 従5位下を与えまし。
 主として安芸の国に作らせました。 筑紫、長門、近江、備中、播磨
 一隻の人数 数100人
 霊亀2年 1号〜2号〜4号  阿倍仲麻呂/留学生/遣唐往使、大使、副使以下557人が乗り込む。
        一隻平均160人
 孝徳朝、安芸の国ではじめて百済船を作らせた。これは中国型の船で60トンぐらい。  
      以上、出典は 須藤利一編 「船」 法政大学出版局。 富士見市立図書館蔵

 視点を転じて高麗王が辿った交通の中身にこだわってみましよう。 700年代初頭、701年の律令国家の誕生以降、続日本紀には韓半島から使者がたびたび送られてきていることが記述されています。そのルートは九州を経て、瀬戸内海の浦を転々とした近畿圏への交易(日本産品は綿、絹、糸、あしぎぬなど、半島からは金をはじめとした、大量の新羅や唐の文物)路と推定できます(研究1)。使用された船はどうでしょうか。この時代は遣唐使船が有名であるが、唐との往来が途絶えた時期があり、その代わりに新羅との往来がありました。この時期の大型船はいわゆる箱型で竜骨などを使用したものではありません(研究4)。この資料によれば「遣唐使用の中国のジャンク」とは別に安芸の国に製作集団がいたとしています。高麗王が韓半島から乗ってきた船はここような箱型船であっただだろうと考えられます。遣唐使船の大きさは長さが30m、幅7〜9m、排水量約300t、帆柱2本で平底箱型。鉄釘はほとんど用いず、平板をつぎあわせて造っていきました。そのため波切りが悪く、不安定で、強風や波浪に弱いという欠点があったそうです。また、航期や航路をあやまることが多く、遭難する船が少なくなかったとも多くの本は書いています。なお、近年では遭難の最大の原因は、定員(200人)オーバーや積載オーバーではなかったかとみられています(研究5)。時代を下って鎌倉時代になると、準構造船から棚板造りの船を発達させたのは瀬戸内海・太平洋であって、楠の生育しない日本海は面木(おもき)造りの船を発達させた」としています。日本海側は大型船は作られていないとも述べています。準構造船とはどのようなものか。イメージですが、

が紹介されています。(日本財団図書館HPより引用) 船底は大きな木をくりぬいたもので、その両側に舷側材を貼り付けて壊れないように梁を渡しています。梁は横に張り出し部を設け、櫓をつかって推進力を得られるようになっています。甲板には人が居住するための小屋を設け、帆は一本マストで倒れるようになっていました。この説明に合致する船の図は韓国戦争記念館の展示品です。高麗王は近江より大磯にいたる海路をこの準構造船で渡ってきたものと考えます。

 柳内賢治氏の小説「高麗王物語」では、若いころの若光は敵の襲撃を避けて近江の国から朝廷のいる都に出るため、大津京より川を小さな船で脱出したというエピソードがあります。淀川(よどがわ)は現在の大津市で琵琶湖から流れ出ます。ここでは瀬田川(せたがわ)と呼ばれます。京都府に入るあたりで宇治川(うじがわ)と名を変え、さらに京都府と大阪府の境界付近、大山崎町で桂川・木津川を合わせて淀川となります。その後も大阪平野をおおむね南流し、大阪市で大阪湾に注ぐ。都島区付近で旧淀川と分派し、以降大阪湾に注ぐ方を新淀川と称する場合もあるそうです。旧淀川は更に分派し、安治川・木津川等に分かれて大阪湾に注ぐ。この旧淀川は「大川」とも呼ばれるそうです。淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8240km²。

 645年大化改新,663年白村江の戦いの後,中大兄皇子は667年に飛鳥(奈良県)から近江(滋賀県)の大津京に遷都(せんと)し,天智(てんじ)天皇となりました。この翌年668年に高句麗が滅び、高麗若光は他の高官とともに日本に渡来しています(日高市史)。しかし671年12月、天智天皇が死亡し、672年に壬申の乱で大津京は滅びますが、壬申の乱が起きる寸前、大津京から飛鳥にかけて近江朝廷(大津京)の見張りが置かれていたそうです。 「高麗王物語」のエピソードはその見張りを逃れたいきさつを描いたのでしょう。
 高麗王は壬申の乱以降、大きな船を仕立てて東国(相模国大磯)に上陸したとの記述があります(大磯町史)。都(みやこ)ではどうやって渡航資金を集めたかが疑問として残るのですが、天武天皇の側についていたからこそその地位にあったのであろう(地位については後述)と考えます。 当時は海運を仕切っていたのは各地の権力者であり、その息がかかった交易船にお金を払えば船や食料・人足を集めることができたのでしょう。

 天武天皇は①官僚制の見直しをし,家柄ではなく,勤務評定をして才能を重視した昇進制度の整備を進めました。②官人に食封(じきふ)を支給しました。③畿内の官人に武器と馬を備えさせました。④支配者層に冠位を授与しました。(冠位60階の公布)。⑤国史(「古事記」「日本書紀」)の編纂を行わせました。日本書紀は(681年)天武の子の舎人親王(とねりしんのう)が中心となって編集した日本最古の歴史書です。神代から持統天皇の時代までの出来事が漢文で書かれています。天武天皇は全権を草壁皇子と鵜野讃良皇女に任せ,686年9月に世を去りました。689年,鵜野讃良皇女は飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を出します。また,庚寅年籍(こういんねんじゃく)という戸籍を作成します。
 そして,持統天皇として690年飛鳥浄御原で正式に即位し,694年には,かねてより建設中だった藤原京に都を移しました。 ここは畝傍山,耳成山,香具山に囲まれた所で,中国の都にならって大きな都が造られました。701年には大宝律令が出され、大磯の高麗地区にあった若光に文武天皇(草壁皇子の子軽皇子)は大宝3年(703)に従五位の下、引き続いて高麗の若光に王(こしき)の姓(かばね)を与ている(続日本紀)ので、晩年(716年)の武蔵の国高麗郡(こまのこおり)への入植はきわめて政治的な方針だったと思われます。 (この項参考資料 飛鳥の扉

 前述したとおり、7世紀の後半、百済と高句麗の滅亡によって我が国土に移住してきた渡来人たちを、大和政権は各地に配置しました。さらに、奈良時代に入って新羅との外交が悪化すると、渡来者集団の一部をそれまで居住していた畿内から東国へ移されました。『日本書紀』や『続日本紀』に記された記述から、当時の政府が渡来人に対して取った政策が読み取れます。 天智4年(665)……天平宝字4年(760)にかけての記述があるがおそらくは氷山の一角でしょう。

 次の疑問は大磯からどのような道をたどって高麗郡に入植したかです。この疑問を解くには物流と税の運搬手段とルートがどうなっていたかを知ることが重要だと思います。701年、大宝律令の制定によって,天皇を頂点とする律令国家が成立しましたが、律令国家の政治のしくみは、中央に二官八省の役所をおき、地方は国・郡・里に分け、北九州に大宰府を設置した。班田収授の法を布いて、人々に口分田をあたえ,租・庸・調の税や雑徭(労役)を課し,公民男子には兵役の義務をおわせました。各地からは産物が税として都に運ばれたのですが、平城京から出土した木簡から推定される各地の産物(調・贄として都に送られたもの)の中に武蔵国(味噌)、武蔵国(フナ)の記録があるそうです。国家として体裁をなすには被支配階層の集落と産物を基盤に、中央政府の存在(国司を派遣)と税、旧地方政府と軍事支配(国造(豪族)→郡司)、中央と地方を結ぶ交通手段と通信手段、交易の場としての市が必要ではないでしょうか。生産物の流通には貨幣が必要ですが、708年秩父地方に自然銅が発見され朝廷に献上されて元号が和銅と改められました。貨幣は和同開珎と命名されましたが、貨幣を流通させるには政府の信用が重要なのは今も昔も変わりません。日本の地形を考えるに、山国であること、急流で分断されていること、周囲が海で囲まれていることこれらの三つを克服して交流を進めていったと考えられます。 

 以上のような時代背景を考えますと、高麗王はその出自はともかく当時可能な交通手段により関東に移動し、高い知識と技術力を持った高麗人を率いて高麗郡を建設したものと想像できます。

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万葉歌集に現われる船の記述

 日本書紀、古事記が官製の歴史書としますと、その歴史のおりおりに当時の人々(朝廷人・官人)たちの感性を綴ったのが短歌=万葉集であろうと考えます。 実際、万葉集の解説書にはそのような関係を論じたものが多いのです。 このページは高麗王のルーツを辿ることが目的であり、高麗王は近江の国から「どのような交通手段で来たのか」がテーマなので「万葉歌」からそれを探ることにしました。海上輸送=舟について考えました。

ここでは「万葉秀歌」、著者:斉藤茂吉=岩波新書5 をテキストにして味わいました。 付記した万葉仮名(まんようがな)は「万葉集を読もう」に拠ります。 「万葉秀歌」は1938年11月20日第1刷が出、ここで紹介するのは1969年9月20日 第5刷です。

1、額田王(ぬかだのおおきみ) 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は榜ぎ出な (巻一・八)
                    熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

解釈: 場所(伊豫の熟田津〜にぎたづ)、 とき(斉明天皇7年正月=661年1月) 満潮を待つ(陰暦14日午後9時ごろ)、 状況(百済が滅ぼされ、新羅に軍勢を率いて向かう途中、九州の手前(熟田津石湯の行宮)でお供をした額田王が詠んだ)

2、麻続王(おみのおおきみ)  うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食す (巻1−24)
                    
空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食

解釈: 場所(伊勢の伊良虞=いらご) 流刑地は因幡の説(書記)もある。海人=漁師に間違われるほど苦労している流刑地での情景を詠んだ。

3、柿本人麿(かきのもとひとまろ)  楽浪 (ささなみ) の志賀の 辛崎 (からさき) さきくあれど大宮人の船待ちかねつ (巻1-30
                      樂浪之 思賀乃辛碕 雖幸有 大宮人之 船麻知兼津

解釈: 場所(近江の宮址=南滋賀町廃寺跡) とき(大津京を思う) 状況=志賀の辛崎(現在の表記は唐崎)の港が大宮人の船を待ちくたびれているように見えた(擬人法)。あるいは、昔の人が訪れないからかくも湖面は寂れ淀んでいる。人間の顔のように、風景にも表情がある。寂しげな辛崎の表情を明るくするものがあるとすれば、それは港にふたたび天皇の行幸を迎えること。人麿はそう祈って歌を詠んだ。

4、柿本人麿(かきのもとひとまろ) 山川も依りて仕ふる(かむ)ながら たぎつ河内(かふち)に船出せすかも 巻1-39
                      山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母

解釈: 場所(吉野川、現在の宮滝付近) とき(持統天皇5年(690年)春ごろ) 状況(持統天皇吉野行幸の時、反歌として献上)

http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/si-hanazono-kaisetu.html

5、高市黒人(たけちのくろひと) いづくにか船 (は) てすらむ 安礼 (あれ) の崎榜ぎ (た) み行きし 棚無小舟 (たななしをぶね)  ( 万1-58)
                    何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟

【通釈】今頃、どこに碇泊しているだろうか。安礼の崎を漕ぎ廻って行った、あの棚無し小舟は。 

解釈: 場所(参河国の埼) とき(柿本人麿と同時代) 状況(旅行中) 「棚無し小舟」とは船の左右の舷に渡した旁板を船棚というから、その船棚の無い小さな船をいう=準構造船

6、柿本人麿  玉藻刈る 敏馬 (みぬめ) を過ぎて夏草の 野島 (ぬじま) の崎に舟近づきぬ 3-250)
          珠藻苅 敏馬乎過 夏草之 野嶋之埼尓 舟近著奴

解釈: 場所(摂津武庫郡の小野浜から和田岬の一帯=現在の神戸市灘区岩屋付近から、淡路島北端の岬=津名郡の野島村)  とき(夏) 瀬戸内海を船で旅する連作八首の第二首

7、柿本人麿   灯火 (ともしび) 明石大門 (あかしおほと) に入らむ日や榜ぎ別れなむ家のあたり見ず(巻3-254)             留火之 明大門尓 入日哉 榜将別 家當不見

【通釈】明石の海峡に船が入って行く日には、故郷から漕ぎ別れてしまうのだろうか、もう家族の住む大和の方を見ることもなく。

解釈: 瀬戸内海を船で旅する連作八首の第一首 往路=西に向かうの作 場所(明石海峡。明石市と淡路島北端の間の海峡。次の歌の「明石の門(と)」も同じ) とき()

8、 柿本人麿  飼飯 (けひ) の海の庭よくあらし 刈薦 (かりこも) の乱れて出づ見ゆ海人の釣船 (巻3-256
           飼飯海乃 庭好有之 苅薦乃 乱出所見 海人釣船

解釈: 場所(飼飯 (けひ) の海=淡路島西岸の海)  状況(庭よくあらし=漁場の状態が良いらしい) 刈薦 (かりこも) =枕詞、 薦→和名=まこも, イネ科:植物 → 万葉集に出てくる植物の名前  現在(文字通りの白砂青松の海岸が約2.5km続き、数万本の松が枝を広げてさまざまな姿を見せている。この海岸には海水浴場もあり、海水浴客で大変にぎわっている)

9、高市黒人 旅にして物恋しきに山下の (あけ) のそほ船沖に榜ぐ見ゆ巻3-270)
           
客為而 物戀敷尓 山下 赤乃曽保船 奥榜所見

【通釈】旅にあって何となく家恋しい気分でいたところ、さっき山の下にあった朱塗りの船が、今は沖の方を漕いで行くのが見える。

解釈: 場所()  とき() 朱のそほ船=朱塗りの船。官船か。「そほ」は赭土(しゃど)から取った塗料で、赭土といっても、赤土・鉄分を含んだ泥土、粗製の朱などいろいろであった。その精製品を真朱(まそほ)という。霊力をもつと考えられた。真朱(しんしゅ)    ■=紅柄色(べんがらいろ)

10、山部赤人(やまべのあかひと)  武庫の浦を漕ぎ廻る小舟粟島をそがひに見つつ羨しき小舟 (巻3−358)
                       武庫浦乎 榜轉小舟 粟嶋矣 背尓見乍 乏小舟

【通釈】武庫の浦を漕ぎ巡ってゆく小舟よ、粟島を背後に見つつ都の方へ漕いで行く、羨ましい小舟よ。

解釈: 場所(武庫川の河口から西現在の神戸あたり一帯) 粟島=淡路島の北端の説あり。

11、山部赤人(やまべのあかひと) 島隠り我が漕ぎ来れば羨しかも大和へ上る真熊野の船 (巻6−944)
                      嶋隠 吾榜来者 乏毳 倭辺上 真熊野之船

【通釈】 島影づたいに漕いでくると、うらやましいことよ。 大和へ上がる熊野の舟が見える。


解釈: 場所(播磨国室津の沖にある辛荷島を過ぎたあたり) とき()  状況(熊野舟は熊野の海で多く乗ったのであろう、紀州熊野は良材多かる所なれば、その材もて作りたるよしの謂か。さればそれを本にて、いづくにて作れるをも、それに似たるをば熊野舟といふならん。集中、松浦船・伊予手船、足柄小船などいふあるも、みなこの類とすべし=考証)  真熊野の船=解説

 万葉集に収められた歌で船に関するもの → 続きはここ

 以上を勉強しただけですが、舟には大きさの違いがあり、湖水に浮かぶちいさな丸木舟、瀬戸内を走る軽快な釣り舟、そこそこのお客と荷物を載せて港から港を回遊するちょっと大きな漕ぎ舟、満潮を待って大海に漕ぎ出す帆のついた朱色の大きな船、のそれぞれがイメージされるでしょう。

(小括)どうも高麗王は最後に挙げた朱色の大きな船に乗ってやってきたか、ちょっと大きな漕ぎ舟ではないだろうか。しかも大磯には大きな湊は無いので満潮時に浜に寄せて投錨し、小船にて上陸したのではないか

○ 蒙古襲来と船

     

    この本は高麗王のルーツ探しにとても多くのヒントを与えてくれます。なぜかというと、この本の中で筆者の新井さんは海上交通の発達と蒙古襲来の関係について詳細に書いておられるからです。つまり蒙古軍がどのような船でどのようにやってきたのか、またそれらの船はどうやって手にいれたのか、さらに侵入ルートはどのような経緯で決まったのか、貿易に不可欠な大型船ののこと等が随所に述べられているのです。逆に、武士たちは蒙古襲来に備えて船や食料、漕ぎ手をどのように調達したかを書いておられます。すなわち、時代を遡って高麗王が大磯に到着したころの海上交通の様子を考えるヒントを与えてくれるのです。 ちなみに筆者の新井さんは日高市(むかしの高麗郡)にゆかりが深く、大学の先生をしておられます。

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 律令国家と道路

 古代において、九州から瀬戸内海を経て東征が行われ、畿内平定の後に国家らしい形が整えられていきます。 しかし、この時代の史実で道路に関するものはきわめて少なく、草深い小道が想像されるのみです。もっとも当時から馬は使われており、騎馬の通行が認められていたそうです。当時、関東は馬の産地であった、との記述がいろいろな本で出てきます。

古代の道路としては、神まつりの記録(崇神天皇時代)、壬申の乱(天武天皇時代)の戦況記録(日本書紀)などの史料によると、昔、 大津道 (おおつみち) (大阪府堺市と藤井寺市に至る道=長尾街道)と丹比(たじひ)道(堺市から羽曳野市古市に至る道=竹内街道)と呼ばれた道があります。 丹比道を東へ、堺、松原、 羽曳野、太子の市町を経過し、竹内峠で大阪、奈良府県境を超え、さらに当麻、 今も横大路と呼ばれている東西道を東へ進み、大和高田、橿原、桜井の市町を経 て明日香(現奈良県高市郡明日香村)へ達するとされています。それに関連する大和の古道として藤原京と平城京につながる上ツ道・中ツ道、下ツ道や横大路が形成されていきます。日本書紀によれば聖徳太子の時代の難波は、瀬戸内海からシルクロードの終点:明日香を結ぶ竹内街道(丹比道)の基点として、多くの渡来人が住む国際都市であったようです。

大化の改新の翌年(646年)、孝徳天皇は、「改新の詔」を宣布し、古代律令国家への第一歩を踏み出しています。大和政権は全国に国府を置き国司を任命した。中央と地方との官庁間を連絡する「駅制」を整備していきます。駅制のもとに運営される道路が「駅路」(官道)であり、駅路には30里(現在の約16km)ごとに駅が置かれ、輸送機関として「駅馬、伝馬」が用いられました。官道はなるべく直線になるように敷設されました。駅使には、「駅鈴」とよばれる鈴が与えられました。 国府には政治や儀式を行う政庁がおかれ、国司が政務を取ったそうです。また、国府の近くには国分寺・国分尼寺が建てられました。一方、国の下には郡が置かれ、郡司を任命した。郡司には大領・少領・主政・主帳の区別があり、郡家で政務をとったそうです。郡家などを結ぶ道として「伝路」があったようで、それらに関する本もいくつか読みました。最近、国府や郡家の発掘が進み、徐々に当時の姿が解明されてきています。 ->(古代日本の計画道路 ―世界の古代道路とも比較して―)

駅鈴 Ekirei  武蔵路の発掘 国分寺市の旧国鉄中央鉄道学園跡地 東京国分寺から国府方面の発掘跡(保存状況については後述


古代律令国家の整備は、大化の改新以後、「大宝律令」(701年)の制定を経て、平安期のはじめの頃まで続けられています。中央集権国家体制が強まり、陸上交通施設としての道路も全国的な規模で整備されていきますが、畿内を中心とした放射線状につくられた幹線道路は主な諸国との重要な交通路になっていきます。しかし平安時代以降は船の発達によって大量輸送の時代が訪れることになり、使われなくなった道路は田畑や市街化の波に埋もれていくことになりました。


↑「古の道を訪ねて」より引用  ほかに「奈良国道事務所パンフ」より引用

 これら都を中心に各地方を結ぶ放射線交通路のうち、東海道、東山道、北陸道、山陰道、南海道、西海道の7路線を「七道駅路」といい重点的な整備が行われています。これら「七道」の呼称は駅路の名称であるとともにそれぞれの駅路によって連絡されている国の領域の意味でも使われています。この場合、畿内5国は別に扱われ「五畿七道」と呼ばれました。

「七道駅路」のうち都から太宰府までの山陽道を天路、東海道、東山道の2路を中路、その他は小路と呼ばれました。これら幹線道路はわが国で最初の幹線道路網としてつくられており、現在に至るまでも幹線として利用されています。

古代の相模路は「延喜式」に記述があります。相模ー武蔵国間の公路は、坂本(関本)=22頭の駅馬あり、小総おぶさ (国府津こうづ )、箕輪みのわ (伊勢原)、浜田(海老名)、夷参いさま (座間)の5駅を経て武蔵の国に入り、店屋まちや (町田)、小高(川崎)をとおり国府(府中)に至るとされています。武蔵国は東山道に属していましたが、宝亀2年(771)に東海道に編入され、相模からの駅路も変更されています。相模国の国府はまだ特定されていないそうですが、浜田のあたりも候補の一つだそうです

中世に入り、源頼朝が鎌倉に幕府を開設すると、山陽道に変わって東海道が重要視されるようになりました。鎌倉時代には鎌倉街道の整備や、東海道の駅制の再整備などが進められました。しかし、鎌倉街道を除いて、大きな道路整備はされていないのです。戦国時代には、武田信玄や織田信長などが積極的に道路整備に取り組んでいますが、全国的な道路網として整備されるのは江戸時代に入ってからです。江戸時代に入ってからは江戸を中心とする幕府直轄の五街道や、各国領主が整備・管理する脇街道(わきかいどう)によって全国的な道路網が形成されていきます。

 研究13では測量技術について述べられていますが、天文のことが書いていないので不満が残りますがおそらく重要な知識であったと思います。大化の改新以降、国府のある相模国大磯からほぼ北にまっすぐに道路(幅は12m)が作られ、途中にが作られたのだと考えられています。武蔵の国には国府が多麻郡(現在の府中市)に置かれました。関東平野は大きな山が無く、川は河口近くでは幅広くゆったりしていたと思われますが、この道路に沿った川は乾季には牛馬や徒歩で渡れたと思います。文化・芸術の中心である寺は中央権力に結びついていましたが、僧侶たちはその高い知識力と組織力を生かして地方の経済力を背景に広がっていったのではないでしょうか。

一般書

「建設技術研究所/編著 『道なぜなぜおもしろ読本』  山海堂」

「武部健一著 『道のはなしⅠ』  技報堂出版」

『道路行政 平成15年度』 奈良国道事務所

「浅井 建爾著 『道と路がわかる事典』  日本実業出版社 道路に限らず、”みち”に関する古今東西の雑学が集められています。

専門書

「森田悌著 『日本古代の駅伝と交通』 岩田書院。武蔵国に関わる交通路の研究」 評伝はここ

「木下良(監修)・武部健一(著) 『完全踏査 古代の道 ‐畿内・東海道・東山道・北陸道‐』 吉川弘文館。全駅路を実際に走破し、駅路の歴史的変遷や駅家の位置などの全貌を解明 (飯能市立図書館蔵)」

「木本雅康著 『古代の道路事情』 吉川弘文館。なぜ大規模道路を建設したのか、その背景にある古代国家の実像に迫る」

「中村太一著 『日本古代国家と計画道路』 吉川弘文館。計画道路の形成や変遷の過程を解明し、その成立や変化の意義などを、国家の形成と展開のなかに位置づける」

「永田英明著 『古代駅伝馬制度の研究』 吉川弘文館。駅伝馬制度の機能的展開や経営構造を分析し、駅伝馬制度の実態を追及した意欲作」

道の本を集めたHP  奈良県立図書館

                     川越の道路 バナー1

古代官道 石川県 白ヶ峰往来 古代〜近世 七尾−志雄−氷見(石川・富山)、下石〜白ヶ峰 4km(志雄町) 富山県側と合わせて6km→富山県氷見市へ続く  (以上、歴史の道 調査報告書 収録図書=関東地方の歴史の道5 埼玉2 海路書院)

古代官道 大阪府 竹内街道 近江 堺ー竹内峠ー明日香(大阪奈良) 太子町春日〜竹内峠 約1.8km(太子町) 大阪府側の峠道部分に土道が残る (以上、歴史の道 調査報告書 収録図書=関東地方の歴史の道5 埼玉2 海路書院)

 東京国分寺市・泉町の古代官道跡 

新宿一西国分寺 中央線特快速23分

−国分寺市・泉町で発掘された東山道・武蔵路。幅員15m、延長400mで、地下1mに覆土保存されています。地表はアスファルで覆い、幅と両側の側溝位置をペイント塗装しています。 →関連HP

現地はJR西国分寺駅、東南至近、元中央鉄道教習所グラウンド跡です。再開発の際、偶然に発掘されました。掲載写真の逆方向百メートル程度のところを中央線が走っています。前方は武蔵・国分寺跡、さらに武蔵・府中(現大魂神社)までほぼ一直線、現府中街道、武蔵野線とほぼ並行して延びています。

出典 木下良(監修)・武部健一(著) 『完全踏査 古代の道 ‐畿内・東海道・東山道・北陸道‐』 吉川弘文館。図中、東の上遺跡(あづまのうえいせき)は埼玉県所沢市で平成元年(1985年)に発掘されました。道路の建設年代は遺物や建物遺構から7世紀第3四半期のものとされています。幅12メートルの波板状凹凸面と呼ばれる路面も確認されています。日影山遺跡は、平成7年(1995年)に東京都国分寺市で発掘されました(上の写真参照)。両側の側溝は排水目的よりも道路境界を示すものとみなされています(同書149ページ)。

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白村江のたかいと高麗王

 663年白村江の戦いの後,中大兄皇子は667年に飛鳥(奈良県)から近江(滋賀県)の大津京に遷都(せんと)し,天智(てんじ)天皇となりました。この翌年668年に高句麗が滅び、高麗若光は他の高官とともに日本に渡来しています(日高市史)。白村江のたかいは百済の再興を目的として倭国より大勢の軍勢が差し向けられました。新羅軍・唐軍もまた地上戦力のほかに大量の水軍を擁していました。倭国の水軍は駿河の国で用意された軍船を派遣したとされています。いづれの国の水軍の詳細は不明で、舟何艘という程度の記録しか残っていないそうです。最近読んだ本(白村江、著者遠山美都夫(とおやまみつお)、講談社現代選書)によれば日本書紀、朝鮮・中国の史料、万葉歌集を下敷きにしつつ各界の文献を駆使したところでも、そのような記録しか残っていないそうです。
 しかし高麗若光が大磯の浜にやってきたときの舟は、白村江の戦いに参加した軍船だった可能性は大です。百済が破れ大量の百済人が倭国に逃れてきたが、大和政権はそれらのひとびとを倭国の各地に封じたことはすでに記述しました。また、高句麗が破れ、同様に大勢のひとびとが倭国に渡ってきました。その中に高麗若光が含まれていました。それらの人々も倭国の各地に封ぜられました。その過程でも移動手段として軍船が使われたと考えられます。考えるに、戦いに敗れたひとびとは瀬戸内海を通過し、途中、湊にたちより水や食料を補給しながら京を目指し、そこから各地に分かれていったのではないでしょうか。そのためには海路に明るくてはならず、また倭国の地理を知らねばなりません。古代律令国家の各地に置かれた国司をたよって陸路を、また海路を利用して逃げ延びてきたのだろうか? そのような疑問が膨らみます。

NHKスペシャル「飛鳥発掘が覆す大化の改新」 NHKテレビ 午後10:00を見て。  唐の軍船は「楼船」といわれるもので、長さ120メートル、高さ30メートル、の巨大な船でした。それに大して倭国の船はあまりにも小さく、武器も貧弱でした。この戦いの部分はコンピュータグラフィックで作ってあって、よくできていたが眉に唾つけて見たほうがいいです。僕には大変興味あるシーンであったのでこの絵を入手したいものですが、NHKのHPからはゲットできていません。ちなみにこの番組の趣旨は、蘇我入鹿は唐の権勢から天皇を守るために盾となり、軍事・外交面の備えを固めたこと、大化の改新は実は天智天皇の世になってからはじめられたものなのに、「中大兄皇子が始めたものだ」と出来上がった日本書紀を加筆修正した痕跡がある(文法の使い方が違う箇所)との説を紹介しています。
 さらに番組は、天智天皇が瀬戸内海、九州に及ぶ地域に唐の攻勢に備える守りを固めたことに触れました。岡山県に鬼の城がありますが、これは古代城で、特徴は(版築工法)といって、城の基礎をこの工法で作ったものです。数十万人を動員したと考えられいます。この大量動員は労働力の確保をどのようにしたかが成否を決めます。それまでの縦割り支配ではこのような大規模動員はできず、統一した権力が必要だと思います。そのような必要性が大化の改新の動機付けだったと番組の出演者(東洋大の森先生)は解説していました。中央政府が税を取る仕組み(50戸ごと)を記した木簡を紹介し、それは天智天皇の時代だったと解説していました。710年平城京建設、奈良時代に入ります。その10年後に日本書紀はできました。その作業の中で「645年に律令国家を目指した」と(藤原不比等は)書き直させたそうです。(以上、番組鑑賞メモと新聞切抜きより:2007年2月7日記す) 関連するブログを見つけました(

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第2章 高麗王と高麗郡

 高麗王のルーツと高麗郡の建都にいたる道のりが分かってきた(?)ので、いよいよ高麗郡の内容に踏み込みたいと思います。そのため、関連する本を読んでいくことにします。

渡来人と仏教信仰  柳田 敏司/編 雄山閣出版 1994年 を読む

花寺周辺の古代寺院   担当 高橋一夫氏

入間郡 勝呂廃寺(氏寺) 近くに宮町遺跡(駅路と墨書された土器が出土) 先住民を追い出してその敷地の上に土をかぶせ、大きな柱を立てて建設。時期は7世紀後半、10世紀前半には廃寺か。  「駅路」と書いた須恵器が出土。近くに官道が走っていた?

女影廃寺 日高市大字女影字若宮 高麗郡設置(8世紀第24半期)とともに建立? 瓦は茨城県新治廃寺から運ばれてきた。 9世紀後半まで存続。 原資料=日高町教育委員会「若宮」1984年発行

大寺廃寺 日高市大字山根字下大寺に所在、一部は現在の毛呂山町。8世紀中ごろ創建、中世にも存続。高麗氏との関係有り(氏寺)? 原資料=日高町教育委員会「大寺廃寺」1984年発行

高岡廃寺 日高市清流小字ケシ坊主に所在 丘陵南斜面。 岩盤を掘りぬいた溝がある。 瓦塔あり。カマド状の遺構あり。 造営は8世紀中ごろ。 廃絶は11世紀前半。火災が原因。 僧勝楽の菩提寺(751年没)の可能性あり(高麗氏系図)

比企郡 寺岩廃寺、小用廃寺(興長寺廃寺)

以下作業中。

更新履歴

2007年9月30日 高麗郡測量地図追加

2007年10月3日 リンク先変更(大磯町)

2007年10月4日 リンク先変更(大王のひつぎ実験航海)

2007年10月19日 「高麗郡はどのようにしてできたか」 を追加

 

「桓武天皇と激動の長岡京時代」を読む 2009年3月メモ

山川出版社 国立歴史民族博物館{編}歴博フォーラム 2009年1月15日 1版1刷 印刷、1月25日発行

235ページ 

「天智系天皇」としてその皇統を鮮明にした桓武天皇は、難波京を廃止、その資材を長岡京建設に転用した(784年、延暦3年)。それまでの天武系天皇の力を削ぎ、光仁天皇を引き継いだ(781年4月、天応元年)。延暦8年に亡母を百済武寧王の子孫として「百済王等は朕が外戚なり」との有名な詔を出した。それ以前にも権力掌握のため、天応元年(781年)12月には天武系氷室川継を伊豆に流している(関係者一同も処罰)。交野は8世紀中ごろ、攝津国百済郡から移住した百済王氏の主流が住んだ場所である(現大阪府枚方市・交野(かたの)市)。桓武天皇は783年に10月14日〜18日まで逗留、百済系の子孫を昇叙(百済王明信を正4位下に、百済王一族に位階を授ける)、褒賞、氏寺(百済寺)に正税(1)一万束を施入した。785年の冬至、天壇を設け、遷都を謝し、光仁を始祖とする新王朝を宣言する郊祀(2)を執行した。

(1) 律令制で、正倉に貯蔵された官稲

(2) 皇帝祭祀は、史書では郊廟としてあらわれており、皇帝の祖先を祭る宗廟で行われるものと、都の郊外で行われる郊祀に分けられる。また、郊祀は天の主宰神への祭祀である南郊と、地の自然神への祭祀である北郊とに大きく分けられる。

百済に関するWikipediaはここ

「ぼくらの高麗神社 ‐高麗の里をたずねて-」

平成6年度 飯能市立精明小学校 卒業論文集 H7.3 6−1担任 田中文夫

”自然の山と川につつまれて 鳥がさえずり魚がおよぐ 古い歴史を持つ高麗の里 たずね歩けば 遠い昔のにおい” 日高市「画廊喫茶 はぎ」で見かけた詩

と綴られた手作りの文集(印刷は 樋口印刷)を飯能市立図書館で見つけました。

内容は小学生が班毎に分かれて調べたことがらを、ガリ版印刷したものです。高麗王が現在の日高にやってきた経緯をいろいろな角度から調べたもので、高麗神社に訪れた政界や財界、皇室関係者の名前や経歴までも網羅した、本格的な論文集です。今年は日韓併合100年にあたるのですが、朝鮮統監府関係の小磯国昭にいたる歴代総督の名前や選抜の基準(陸海軍の大将、中将から任命された)などに言及した記述は、大人顔負けの調査です。

また、李王朝最後の皇太子(大韓帝国皇太子 李垠 日本名は昌徳宮李王垠〔りおうぎん〕)と李方子が植えた杉に関する解説もあり、高麗の里と朝鮮半島の関係を具体的に結びつけるエピソードも盛り込まれています。統監府は天皇に直属し、一般政務のほかに軍務統轄を行うなど、幅広い権限を持っていたこと、李氏が日本との併合後、日本の皇族の待遇を受けたこと、李王職 高義敬(李王家の執事的地位にいた)の名前も表れます。

参考 2007年12月6日 韓国社会文化ニュースより
 大統領直属機関の親日反民族行為真相糾明委員会は6日、第2期(1919〜1937年)親日反民族行為者195人の名簿を最終確定し、決定理由などもまと めた2007年度調査報告書を大統領と国会に提出した。これで委員会が選定した親日反民族行為者は、昨年発表された第1期(1904〜1919年)の 106人と合わせ301人になった。

第2期親日反民族行為者は、主に1919年の独立運動後に実施された日本帝国の民族分裂政策に積極的 に協力した朝鮮人が対象となっている。貴族や朝鮮総督府の中枢院参議ら日本帝国の植民地支配に直接賛同した人物、独立運動の弾圧に積極的に協力した人物が ほとんどだ。日本帝国から子爵を与えられ、朝鮮殖産銀行の設立委員や大東斯文会会長などを歴任した閔泳徽(ミン・ヨンフィ)、高宗を強制退位させた「丁未 7賊」のの1人で、中枢院顧問などを務めた高義敬(コ・ヒギョン)らの名がある。高宗退位を主導した宋秉ジュン(ソン・ビョンジュン)と、内務大臣を務 め、1905年に韓国支配を決定付けた乙巳条約(第2次韓日協約)に賛同し「乙巳五賊」と呼ばれる李址鎔(イ・ジヨン)は、本来は植民地時代の初期に入る が、昨年の第1期報告書にもれていたために今回の報告書に含められた。

報告書は全4巻、3000ページ以上に及ぶ膨大な 量で、第1巻には委員会の事業と調査活動の内訳、残り3巻には親日反民族行為者195人に対する決定理由が記されている。

委員会は来年、第3期とする1937〜1945年に主に活動した反民族行為者に対する調査を実施し、報告書を作成する計画だ。


最終更新日 2010/12/15

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