測量技術から見た高麗郡設置

中国の度量衡や測量技術は、六世紀の中ごろから遣隋使や遣唐使によって我が国に伝えられた。645年の大化の改新では班田収授法が制定された。このため、区分された田地の位置を定めるため条里制が施工され、田図田籍が作成された。麻布に描かれた757年作成の東大寺開田班田図など十数点の田図が、正倉院御物として現存している。また、大和の橘寺には大化の改新の際に実施された地籍測量の面積基準を示したという一畝(約1アール)の土盛(畝割塚)が今も残っている。
 平城京は710年に条里制の都市計画により造られた。このことは当時の測量技術水準の高さを裏付けている。正倉院の古文書によると、当時の役所には算師という役職があり、これは測量技師であった。

 我が国最古の地図は、行基海道図である。行基は諸国を行脚して仏教を広めると共に種々の土木工事を行ったが、実際に一人で地図作りをしたかどうか明らかではない。行基図にはさまざまな種類があり、図に示したのはその一例である。

行基海道図 

 


日本最古の地図 行基海道図

日本最古の地図 現在まで伝えられている最古の日本全図は聖武天皇の天平14年(742)に行基菩薩が編集した海道図(行基図)であるとされている。
行基は僧侶であって地図の専門家ではない。従って、行基図というのは編集図である。編集図を作成するに当たって基図と考えられるのは「続日本紀」である。僧行基と地図作りとは無縁のようで、その組み合わせは不思議にさえ思える。しかし、この疑問は行基の波乱に富んだ一生を知れば、ほぼ納得がいくのである。行基は天智7年(668)和泉國大鳥郡に生まれ、出家したのは天武10年(682)14歳であった。
 「僧尼令」の定めは、僧侶は吉凶を占ったり、妖術、妖言などによる医療行為や、道場を作って多くの民衆を集め、幸不幸を説くなどの布教活動はすべてこれを禁止する。また従わない者は、僧侶の資格を剥奪するとあった。しかし、行基は民衆への布教活動こそが仏の道であると考え、行基を慕って集まった大勢の弟子たちとともに禁を犯して村里に出て法を説くようになった。
行基は、摂津、河内、和泉、山城などの近畿諸国を回り布教のかたわら民衆とともに道路をつくり、橋をかけ、池を掘り、水路を通し、提を築くなどの土木工事に情熱を傾けた。東大寺大仏造建が開始された天平15年(743)行基は弟子や民衆を動員して造建に協力し、その功績により天平17年(745)大僧正に任じられ、その4年後平城左京の菅原寺で82歳の生涯を終えた。

 行基の業績の中で特に目につくのが土木工事である。このことが地図作成に直接関係のあったことは容易に想像のつく事であり、必要に応じて工事測量や工事完成後の地籍測量なども頻繁に実施していたに違いない。行基が土木かんがい工事を多く施工した時期が、養老7年(723)の三世一身法の施行と時期が重なっているのは、測量との関連において重要なことである。
 三世一身法とは、一種の開懇奨励法で、新しく用水路や用水池を作って開墾した者には、子、孫、曾孫の三世代、また既設のかんがい設備を利用して開墾した者には本人一代限り、その開墾田の保有を認めるというものである。このため、貴族豪族などの土地所有意欲が一挙に表面化し、この前年発表された国費による良田100万町歩の開墾計画も加わり、新田の開発が急速に加速されることになったのである。これは、工事測量を始め地籍調査測量など、一連の測量関連技術の発達を助け、絵図や地図が不可欠のものとして普及することになったと考えてもさして不都合もあるまい。
 行基は既存の地図を編集して、仏教図としての形を確立し、行基によって確定された地図の様式は、その後長期にわたり、すべて「行基図」と呼ばれ、悪鬼・悪疫を払い国の安全を祈る儀式に用いられた。

 鎌倉、室町と続く中世には班田制は衰退し、代わって貴族や寺社が所有する荘園制となった。そして荘園の経営管理のため、荘園内の地勢、集落、耕地、道路などを鳥瞰図的に描いた荘園図が作られた。
 応仁の乱以後国内は乱れ、度量衡も土地台帳も混乱した。豊臣秀吉は天下統一後の天正十七年(1589)全国の検地を発令し、文禄四年(1595)に完了した。検地とは現在の地籍測量に当るものであるが、このとき曲尺の六尺三寸を一間とし、一見四方を一歩、三十歩を一畝、さらに十進法により反、町の単位を定めた。文禄四年、検地の結果が編集されて文禄国絵図が作成された。

 716年(霊亀2年)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7国の高麗人1,799人を武蔵国に移して高麗郡が置かれた(続日本記)。 それより前、応神天皇の頃に高麗王らが船で上陸した平塚付近の高麗山の緯度は高麗郡と同じとの説がある。以下、高麗郡の設置に関する測量法を論じた記事を採録する。

http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/toraijinkenkyuu/kaihou0603.htm

 

sokuryou

Ⅴ距離の測定法

諏訪→富士山→鹿嶋はだいたい直角  

諏訪→富士山までの距離=a:東西線に対する角度60度

富士山→鹿嶋までの距離2a:東西線に対する角度30度()

よって諏訪→鹿嶋の距離=√5×a×a=200キロ

諏訪→鹿嶋の中間地点と富士山の東西線に対する角度→60度、冬至南中時の太陽もしくは北極星から緯度を割り出すと高麗郡にたどり着く

また伊勢→富士山の角度も30度である。よって飛鳥御原宮から諏訪までの距離・Bも出る。図参照。つまり諏訪→富士山→鹿嶋の直角二等辺三角形の2倍相似の直角二等辺三角形を伊勢→富士山→鹿嶋→諏訪→日本海で作成する。すると飛鳥→諏訪→鹿嶋の等距離東西ラインが作成できる。

→富士山と東西線の角度と北極星の角度から神社や都市の位置を測定・決定。三角法・三平方の定理?

まとめ715年、16年にかけての時期、席田郡、高麗郡の渡来人移動・配置については、それぞれ伊勢神宮、諏訪前宮、鹿嶋・香取神宮から緯度・経度、距離において、正確な三角法測量をもとに計画的になされていました。特に富士山と東西緯線ラインを目印に測量がなされています。また渡来人を主要神社から特定の方位・位置に移動させるという思想が伺えます。そして東に鹿島、西に諏訪と四神相応の地としての高麗郡のあり方がみえます。なお、三平方の定理確立の時間軸を追うと、まず飛鳥→伊勢ラインがもっとも古く作成されねばならず、次に伊勢→富士山ラインの作成、および富士山→鹿嶋ラインの作成が必要でしょう。そこから富士山→諏訪ラインを引くことによって、鹿嶋→諏訪ラインが成立します。その辺は百瀬氏が説くようにラインと諏訪、鹿嶋への神話伝承との対比も重要です。そしてその神話が上記にみられる方位思想とともに書紀に挿入されていったことが考えられます。方位・測量詳細については、第8章で後述いたしますが、まずその方位思想の書紀への挿入のあり方について、次に第7章で、近年の四神方位思想に基づく宮殿づくりで話題にあがっている斉明朝の外来思想の流入について考えてみたいと思います。