No.101 シリーズ36「北九州旅行」 その1「福岡県北部」

2003.06.19 更新

「桓壇古記」(古代朝鮮の建国などを述べた朝鮮の書籍)のある訳本には、日本書紀(720年完成の日本の正史 といわれている)について次のように書かれている。

「日本書紀は偽書である。」 その理由は、

 1.卑弥呼についての記述がない  

 2.倭の五王についての記述がない

 3.アメノタラシヒコ(初期の、遣隋使)についての記述がない  からである。

また、「日本書紀は、倭・百済・新羅などの合成史である」 とも言っている。  たとえば、百済の桓武王朝から藤原鎌足が出ている というのである。  

などなど。こんな情報に初めて接したときはまさかと思ったものである。

当時の権力者が自分の正当性を示すために作った歴史書などには、有利な記事は書き残すだろうが、不利なことは書かないか捻じ曲げて書かせるのが当たり前と思われる。しかし担当者はどうにかして少しでも真実を後世に伝えようとするのが心情だろう。真実を書こうとした担当者のこの努力の結果を読み取ることが重要でありかつ面白いところである。

一方、日本の古代の歴史を知るのに日本のいわゆる歴史書、日本書紀や古事記などだけに頼るのではなく、関係諸国すなわち朝鮮や中国の記録の側から見るのも重要なことである。 こんなわけでしばらくは「外からの立場で、古代日本の成立を見る」ことにしたい。

まず、朝鮮半島に最も近く半島からの渡来人が第一歩をしるした福岡県北部・宗像市周辺・日本海沿岸の古代朝鮮文化史跡について報告します。

門司      白木崎(新羅)、楠原(百済)、小森江(高麗江)など古代朝鮮の地名が多い。

立屋敷遺跡  水巻町。遠賀(おんが、朝鮮語読みそのまま)川沿いに位置する「日本の         稲作文化発祥の地」である。朝鮮半島から渡来した弥生文化がここから東進し、全国に伝播していった。ここで出土した遠賀川式土器は西日本の前期弥生式土器の総称で、その東限は長野県の伊那谷まで達する。

八剣(やつるぎ)神社  立屋敷遺跡の隣にある。12代景行天皇の御代、その子日本武尊        (やまとたけるのみこと)は筑紫の熊襲征伐の途次、この地で砧姫(きぬたひめ)を娶られた。境内の大銀杏樹(おおいちょう)は日本武尊のお手植えで、樹齢1900年という。景行および日本武尊は100年頃の人ということか?。

織幡(おりはた)神社  玄海町鐘崎。朝鮮から渡来した秦氏・勝浦氏の織姫を祭る。神功皇后が三韓出兵の折、武内宿禰(たけのうちうくね)に命じ赤と白の軍旗を織らせた という縁起も伝わる。仲哀天皇の皇后神功(じんぐう)とその家臣武内宿禰(たけしのうちすくね)との関係は興味をもって調べるべきである。応神天皇の母は神功であるが父が仲哀か武内かは定かではない。

宗像大社(辺津宮)   玄海町田島。 全国6千社の宗像大社の総本社。天照大神がその御子神である、田心姫神(たごりひめのみこと)を沖ノ島の沖津宮に、湍津姫神(たぎつひめのみこと)を筑前大島の中津宮に、市杵島姫神(いちきしまひめのみこと)を辺津宮に、天孫降臨の前にこれらの地へお降しになった。朝鮮半島からの外来民族=天つ神の渡来(天孫降臨)をし易いように海峡の島々に配したことを意味する。

宗像大社神宝館  沖ノ島での祭礼(4世紀後半)の鏡、玉、武器、工具など。5−6世紀の朝鮮製黄金製指輪、金銅製帯金具など。必見の出土品。

奴山(ぬやま)古墳  津屋崎町。 300余基の古墳時代後期の古墳群。宗像氏=秦氏の墓所。陶質土器の出土。  宗像古墳群中の最大古墳を含む、円墳、前方後円墳。

宮地嶽神社  創建はおよそ1600年前、神功皇后が渡韓するときに戦勝を祈願し、帰還後当地に祠を建てたのが始まりという。主祭神には息長足比売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)、それに従った勝村大神と勝頼大神を合祀する。本殿正面の大注連縄(おおしめなわ)は、長さ13.5m、重さ5トンで、日本一の大きさという。 境内裏手には、横穴式石室を持つ宮地嶽古墳がある。奈良の飛鳥の石舞台古墳に匹敵する九州最大の石室である。胸形徳善の墓という。

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